震災から9年。死にかけた姉貴が一番安全だった件。
いえ、ブログさぼってないっす。コロ休みでストレス溜まってないっす。
あと、義母が子供部屋占領したまま荷物どかしてくれなくてストレス溜まってないっす。
いいからマスクよこせよ!
(# ゚Д゚)
なんか、いろいろごちゃごちゃしてて、あ、そろそろ震災の日だなぁ、なんて思ってたら今日でした。
ちなみに本日、結婚記念日です。毎回黙祷してから「あ、おめでとう」と言いあいます。
ちなみにセイタの誕生日は原爆の日なので、黙祷してから「あ、おめでとう」と言います。
一日お腹の中にがんばって留めておこうとしたのですが、ずらしたらのび太の誕生日になってしまうらしいです。(セイタ談。ぐぐったら本当だった……)
まあ、手放して喜べないけれど、命の重さを考えるにいい機会かなとも思います。
でね、その東日本大震災なんですが、忘れてきてるので備忘録がわりに書かせてください。
うちはちょうどその時、新浦安の交通公園でセイタを遊ばせていました。
市川市在住だったのですが、南行徳に住んでいたので、チャリンコで行けたんですよね。当時のセイタ(3歳)は、現在の引きこもりインドア少年からは考えられないほど、部屋に居られない子だったので、週2くらいで通っていた気がします。
園内のカフェで深川飯や、手作り焼きたてメロンパンなんかが食べられます。新浦安駅から徒歩で行けちゃうような立地に、動物と触れ合える場所があるなんて、すごいでしょ。
あ、行船公園もおすすめ。
船橋アンデルセン公園といい、あの辺はお財布に優しい遊び場がたくさんあったなぁ。
で、脱線しそうなので、その話はおいておいて。
浦安って、ニュースでもやってたけど、埋め立て地で大変だったじゃないっすか?
ちょうど遊んでいた交通公園も、まさに埋め立て地の真上なわけですよ。
この真ん中の建物とか、自販機とか、めきめき地面に沈んでいくわけですよ。
中から子供抱えたお母さんたちがたくさん飛び出してきました。
ついでにコミュニティー広場ってなってるこの辺り、バリバリっと地割れしました。
もちろん立っていられないっすよね。芝生の上にしゃがみこんで地面をつかむ感じです。
さらに周囲は中層マンションがちょうど外壁修理中で、足場が高くまで組んであって、それがいっせいにガチャンガチャン鳴り響いてね……。
ああ、もう地球が壊れちゃうんだなって思いました。
で、わけも分からずやだ、怖い、やだ、と泣いてるセイタを座らせて、
「セイタ! ママから離れるんじゃないよ!」
って手を伸ばしたら、既にセイタがいなかった時の恐怖ったらないですよ。
一瞬手を放しただけなのに、どっか行く幼児ってなんなんでしょうね。あ、はい、私が悪いっす。
いやだってさ、地面掴んでないと立てないからさ、セイタも立てると思わなかったんだもの。
「うわぁああセイタァアアアアアセイタァアアア!!」
って半狂乱で探したら、地割れの中をのぞき込みに行っててびびりました。
めっちゃ怒鳴りつけて抱きかかえて、取り敢えず最初の揺れが収まるまで待ったら、今度地面から例のあれっすよ。液状化。
液状化を生で見れる経験ってなかなかない! なんてキャッキャするわけないでしょうが。初体験の不安しかありません。
ヽ(`⌒´メ)ノ
このままこの液体はどこまで出てくるのか、底なし沼みたいになるんじゃないか、とか。そういやここ東京湾近いけど、津波来ないのかとか、ここ全部沈んじゃうんじゃないの? とか。
知識が無いのでパニックっすよ。
揺れが収まってすぐ倒れた自転車を起こして、セイタを乗せてその場から逃げようと思いました。埋め立て地から離れなきゃ! みたいなね。
液状化した地面って、走れないの知ってた!? ヘドロみたいな? ぬかるんでタイヤに絡みついて、まったくチャリンコは役にたちません。
で、セイタを後ろに乗せて、必死で押しました。
途中、軽トラの作業服のおじさんが車の窓を全開にして、ラジオを大音量にして周囲に情報を聞かせてくれてました。機転が利くジジイだったな、ありがとう。
震源地東北だって!? そんな遠くなの!? みたいなショックしかありませんでしたけどね。浦安でこれですからね。
すっかり関東大震災キタ━━━━━━━━!! ってパニックだったので、ちょっと冷静になったというか、いや、違うな、よけい混乱しました。なんで東北震源で??? みたいな。
で、こりゃあ至急、水や食料を買わないといけないって思い浮かんだんです。
ニュースで見た、外国の災害時混乱状態の街の様子。治安の悪い国だと、店に押し入って電化製品とか担いで盗んでいったりするじゃないっすか。
それが自分の姿で流れました。あれを日本人もやっちゃうのかな? 俺もセイタのために食料やっちゃうのかな? みたいな。
略奪の火ぶたが切って落とされるのかと。
ひぃごめんなさい。
だって頭の中をクリスタルキングの曲が流れてさ、マッドマックスの映像が浮かんでさ。もう、今後は肩パット付きの服着てる自分しか想像できなかったんです。文明滅びたと思ったんです。
引用:北斗の拳
あれ? と思ったのは、すぐに入ったコンビニ。
いやね、一つの教訓を聞いて居たわけです。阪神大震災の被災者の方から。
阪神のとき、会社の同僚のお兄さん(当時高校生)が母親から「さっさとコンビニいって水でも食料でもなんでも買ってこい!」って指示されたらしいんです。
で、買い出しに走らされたお兄さん、手ぶらで戻ってきて、
「俺の好きな味のおにぎり無かったから買ってこなかった~」
と宣って、母親から死ぬほど怒られたらしい。
「もう一度行ってこいぃいいいい!」
で、かーちゃんに追い出されてまたコンビニ行ったら、既にすべて売り切れだったようです。セイタはこのタイプだろうな。
そういう話を聞いて居たので、すぐコンビニに入りました。
案の定、大行列です。
みなさんお行儀よく並んでます。未だにおでんの入れ物がチャプチャプ揺れてて、今にもお汁が飛び出しそうなのに、みんな冷静だなおい。
しかし皆さんしっかりしてるというか、お水は一瞬で売り切れ。で、お茶だけ買って、帰りに寄ろうと思っていた業務スーパーに行ったら、店員が笑顔で「中は危ないのでお客様は入れません」だって。
従業員も外に出てました。ドンキとまではいかなくても、業務スーパーの積み上げ方もすごいもんね。
もちろん電化製品売ってるところ(ヤマダ電機のわきを通り過ぎました)もそうですよね。安全のために建物の外にお客さんは出されます。
日本人すげーって思いました。一瞬でも略奪祭りを想像した自分が恥ずかしい
(/ω\)
で、お家に帰ってすぐお風呂を満杯にしました。まだ出てて良かった。
ライフライン、すぐ止まっちゃいそうだったから。まあ案の定、水道の水もすぐ出なくなりました。
ちなみに、この後浦安の水道を使っている我が家は一週間断水状態になるので、この湯舟の水にどれだけ助けられたかしれません。
主に洗い物とトイレね。
お風呂は途中で耐えかねて健康ランド探して行ってきたけど、外まで大行列。刑務所みたいに裸で洗い場に並んで、やっと湯舟に入れたと思ったら髪の毛だらけ、手でお湯を救うと髪の毛の束。ホラー映画か。
っていうか、一家で風邪引きにいったようなものだった。
でも乳児がいないだけで、まだ良かったです。輪番停電や断水は、どこも困っていたと思うので。
何よりも、うち実家がいわきじゃないっすか。
九死に一生というか、3月11日なんて本当ならこの海岸に居たかもしれない。
↓
そうなんすよ、両親。すぐには連絡が取れなかったわけですよ。
初日は何度かけてもダメでした。
で、諦めつつ何度か電話して、夜に一回だけ奇跡的に繋がったんですけど、とりあえず家が丘の上なので津波からは無事とのこと。本当に生存確認だけでした。(また電話通じなくなるし)
ところが兄貴から電話があって「姉が危篤」とのこと。
姉?(都内在住)
この時兄貴は名古屋で、病院から電話を受けられはしたけれど、都内に入院している姉のことは対応できない。
で、今から言う病院のICUにすぐ行ってと言われ、もう大混乱です。
その後病院からの電話が直でうちに通じて「ご両親と電話が通じないので、妹さん手術と処置の同意書の記入お願いします」とのこと。「とりあえず緊急なので、処置していいですよね?」と口頭で確認。
なんでも心肺停止状態で運ばれたらしく、低体温にして処置しないと死んでしまうとかなんとか、色々当時のことはもう忘れてしまったので割愛しますが、覚えているのは
「いや、処置しなきゃ死んじゃうんだから、さっさとやっちゃってください」
って自分が言ったことでした。同意書って手術も処置も、失敗しても責めないよってことなんでしょうが、このままだと確実に死ぬんだからやってくれYO! いや、親だってそう言うだろうYO!
何度かの電話のうちまた母親に通じて、危篤の旨と処置の話を伝えられました。
なんと、うちの母親落ち着いてました。
「今でもたくさんの子供たちが津波で行方不明、だったらお姉ちゃんは病院にいるんだからまだマシだよね」
とのこと。たしかにね。意識不明だけどさ。
電車が動くとすぐ東大病院のICUに向かいました。
でもさ、ICUって7歳以下入れないんだぜ? セイタ3歳を知らない人ばっかりの待合室に置いていけないんだけど。
って心配してたら、姉の同僚が来ていて、預かってもらえることに。
同僚のおじさんが状況を説明してくれました。
「地震が起きた時、皆机の下にもぐったんです。で、揺れが収まってみんなで階段でビルの下に降りるぞって話になったら、ぐぁん姉さんだけ机の下から出てこなくて。動かないからひっぱり出したら、大暴れしてそのまま動かなくなったんです」
幸い、隣が消防署という奇跡的な条件で、すぐに救急隊員がかけつけてくれて、担架で下まで(職場は8階)運んでくれたそうです。あの混乱のなか、同僚の皆様や、救急の方の対応には感謝しかありません。
お医者「なんで若いのに心臓発作? と思うかもしれませんが、地震のショックで心臓が止まったわけではありません」
お医者さんの話を聞いたら、元から血栓があって、それが地震の時に急に動いたから肺 に跳んだらしいです。
肺塞栓やつらしい。
心臓が5分くらい止まっていたので、脳への影響がギリの時間とか。元通り元気に歩けるようになるかは半分くらいの確立だそうです。
お医者「私の今までの経験では、元通りに元気に歩いて病院から帰った人はいません。覚悟はしておいてください」
という、介護前提のお話に
((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
たぶん、混乱状況でなかったら深刻になっていたのだと思いますが、世間は原発がメルトダウンがと自分たちもどうなるか分からない状況で、身内がやばいって感覚にしては、けっこう落ち着いていたと思います。
母に障害が残る可能性を説明しても、周りが津波で壊滅状態だったので、やはり落ち着いていました。
姉の携帯には、姉を心配するメールがたくさん入ってました。いわきに帰省していたのでは? という心配のメールです。もしかしたら当日会う予定があった人もいたのかもしれないので、一件ずつ私がメールを返しました。昏睡から覚めても、メールを返せる状態なのかがわからないし。
みなさんとても心配してくださり、涙が出ました。
で、どうなったかというと、
元気に歩いて退院した姉
なんの障害も残ってねぇ。
血液をサラサラにする薬を飲み続けないといけないから納豆が食えない、と嘆いているけど、おまえが意識失っている間、周囲は大変だったんだぞ。
この日からダイハードと呼ぶことにしました。
一人暮らしの姉は会社が休みだったら、アパートで孤独死だったと思う。会社の隣が消防車、一番近い救急病院は天皇陛下(上皇っすね)がバイパス手術した天下の東大病院。しかも地震直後で救急搬送の受け入れ体制が万全の状態だったという。
どんだけついてるんだあんた。
((( ;゚Д゚)))
姉は最初の揺れの記憶がまったくありません。大きい余震が頻発していた時も、昏睡状態でした。
目覚めてからも、心臓に負担がかかるとあれなので、地震のことを話しませんでした。
入院中、いわきがどうなっているか、いま世の中がどうなっているか黙っていました(看護師さんと相談して)
なるべく新聞や雑誌を見せないようにしていましたが、ある日あまりに退屈だというので、差し入れで雑誌を買ってしまい、そこに震災のことがでかでかと載っていて、ばれちゃって。
仕方なくやっと状況をお話しました。
姉は最初びっくりしていましたが、そのうち悄然として
「私なんかが生き残っちゃったんだから、今後は謙虚に生きるよ」
としおらしく言ってました。あの元警官のくせにヤクザみたいな凶暴な性格の姉が、こんなことを言うなんて。死にかけるってすごいことなんだね。
しかし医者から転院をすすめられた時
「先生! 〇〇病院だけはやめて! あそこの病院はサイテー! 前に救急の処置してくれた医者が、人が苦しんでいるのに合コンの話してた! ぜったいあそこは嫌!」
とか
「ここの看護師さん、私が病室で幽霊が見えるって必死で説明したら、親身になって聞いてくれてたのにさ。カルテ覗いたら『熱で幻覚が見える』って書いてたムッキィイイイィ」
と元気に怒りを爆発させていました。
「今後は謙虚に生きるよ」
うすっぺらい言葉だな、おい。
いま世間はコロナ大変です。でもあの時のことを思い出して(´;ω;`)
あの時も政府が非難されてたけど、どこも混乱状態ですよね。誰かを非難するのは簡単。どこかに頼りすぎるのはよくない。まWHOクソだな、と叫びたくなるのも分かりますが……。(←連日叫んでる人)
うん、やっぱりどこかに怒りをぶつけたい。
(^∀^)。oO(フザケンナ中韓...)
なんとか人類が勝つよう、みんなで考えて行動して、がんばりましょう。
本日は震災から9年の日。
落ち着いて思い出せないくらい世間は大変だけど、亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。